悲劇にはまだ早い

発達障害な私の備忘録。

アイデンティティの喪失と自己肯定

当面の目標は、診断をもらい、ストラテラもしくはコンサータを処方してもらうことだ。

この二つの薬については、実際に服用している方の体験記がネット上で多く見ることができる。

論文や講演会のPDFなんかも多い。

 

感覚過敏や遂行機能(物事を順序立てて進める、優先順位を決めるなどの機能)に問題を持つ人には、特にコンサータがよく効くらしかっった。

しかし一方でどちらの薬もあまり効果が得られなかったという人も散見される。

そして効果が得られ「普通の感覚がわかるようになった」一方で、それまで得意だったクリエイティブなことが全く出来なくなった、という人もいた。

その結果薬をやめた人もいれば、続けた人もいるし、薬効の切れ目を上手く使っている人もいた。

 

私は詩を書くのが好きだ。

昔は今より好きだった。

特にネガティブな感情が言葉の糧だった。悲しみ、辛さ、そういったものが、引き出しの奥に仕舞っていた美しい言葉を引きだしてくれた。

他に得意なことが何もなく、体が大きいくせに気が弱くて運動も出来なくて、美しくもなく、何の役に立つわけでもない私に、唯一与えられたものだと思った。

特に小学校の時に担任だった先生が、私の詩をよく褒めてくれた。

いてもいなくても変わらないポジションだった私の言葉が、学級通信に載ることもあった。

私の名前が、載っていた。

あなたがこれを書けることは、これを感じられることは、すごいことなんだよ。

そう教えてくれた。

 

今はそうでもない。

もう読む人がいないからだ。

 

私は、普通のことが普通にできる人になって、誰からも疎まれない人間になりたい。

そのためなら、創作なんて出来なくなってもいい。詩なんて書けなくていい。特別なものはすべて捨ててもいいから、まともな人間になりたい。

 

そう思っていたはずなのに、ここにきて、急にそら寒く、恐ろしい気がしてきた。

 

薬を貰って、普通の人になって、仕事に就いて、働いたお金で薬を買って、それを飲んで、誰かの邪魔にならないように生きていく。

そこに詩はない。

私を明るい世界へ連れ出してくれた光は、もう戻ってこない。

そして再び書くためには、薬をやめて私が戻るしかないのだ。

もとの愚図でだめな私に。

 

一度「できる」感覚を知ってしまったら、もう元には戻れない。

できる感覚を知っているできない自分になるだけだ。

言葉を取るか、生活を取るか。

たとえ私以外誰にも読まれないものだとしても確かに、私にとって私が詩を書くことには意味があった。

 

私はこの先誰になるんだろう。

何者として生きていけばいいのかな、なんて月並みなことを考えたりする。

そういえば、今日は月がきれいな色をしていた。