悲劇にはまだ早い

発達障害な私の備忘録。

メンタルが弱くプライドは高い人

「自分、メンタル弱いな」

とよく思う。昔からずっと思っている。

 

「プライド高いところがあるよね」

と時々言われる。多分そうなんだろうと思う。

 

一見相反する要素に見えるものの、この二つを同時に抱えている人は割合多いのではないか。

メンタルが弱く、プライドは高い。

接していて面倒だと感じる人も多いだろう。しかし本人も自覚がありながら、どうにもならず悩んでいることもある。

私はどちらかというと、面倒な人の方だ。

ここでは一歩踏み込んで、なぜ「メンタルが弱く、プライドは高」くなるのか考えてみようと思う。

 

まずメンタルが先天的(生まれ持ったもの)であるのに対して、プライドは後天的な(生まれてから身につける)ものだ。

メンタルを体に、プライドを服にたとえてみる。

 

自分の体に自信がないのでどんどん服を着込む。

人と同じものを着ていると自分の欠点がより目立つので、変な個性(変というところがポイント)を出してしまう。

そして隠しているつもりなのに体の特徴を上げられると、ひどく恥ずかしくなったり、傷ついてしまう。

さらにそれを隠そう、よく見せようと思い、もっと高い服や個性的な服を着込んでいく。

次第に周りの人からは「似合ってない」「それは違うと思う」「こっちのほうが合う」と言われるようになる。

ここで服を変えられる人もいる。選んだ服が似合うよう、体を鍛えようとする人もいる。

しかし客観的に見れば似合っていないとわかっているのに、どうしても脱げない人も確かに存在する。周りの人の言葉を信じていないわけではない。

ただ何よりも自分の体が嫌いで恥ずかしい。似合っていなくても不釣り合いでも、本当の体を見せるくらいなら着込んだままの方がましだと感じている。

周りの人の目が服のセンスに向いているうちは、自分の体に意見が向かなくて済む。

 

 

プライドという言葉は否定的な意味合いで使われることが多い。しかし誇りや自負といった訳があるように、決して悪いばかりのものではない。魅力的な要素でもある。

肝心なのはバランスであるとつくづく思う。体と服、メンタルとプライドのバランス。いかに「ちょうどいい」か。

 

自分を含めメンタルが弱くプライドが高い人を見ていると、妥協ができない性格であることが多いと感じる。

「妥協」や「及第点」「ほどほど」といった言葉にイラッとくる人。

他人の欠点も自分の欠点もよく目につくし、それが許せない。

妥協というのはつまり「80点を許す」ことだと思う。

100点満点以外を取りたくない人にとって、80点を許すことは、ときにテストを受けず0点になることよりも認めがたいことだ。

そこには「20点を落とした自分には価値がない」「100点を取らないと必要とされなくなる」といった強迫的な考えが潜んでいることもある。元を辿れば、自分は必要とされていない(=必要とされていると感じられるだけの根拠が欲しい)という不安がある。

 

先ほどの例は端的に言うと完璧主義のことであるが、その恐ろしいところは、100点を取り続けても満たされるわけではないというところだ。

仮にテストで100点を取れたとしても「1問も間違わなかった、1点も落とさなかった」ことに安心はしても、「100点を取れた喜び」とは少し異なる。

終わりのないコースを走り続けるか、途中で脱落するか。

そして自分が必死に走っている中、同じコースを楽しそうに走っている人を見ると、こう思う。

私のほうが走るの上手いのに、と。

 

体と服。100点のテスト。耐久レース。

ここまでの例を振り返って、メンタルが弱くプライドの高い人が「うらやましい」と感じているのは、どんな人だろうか。

 

自分の体に自信がある人。服で体を隠さなくても、胸を張って道を歩ける人。

テストの点を確認して、過度に落ち込まず、次のテストに向けて冷静に対策ができる人。

ものすごく上手いわけではなくても、楽しそうに走っている人。周りから応援されている人。

うらやましいと感じるのは、自分が欲しいけど手に入れられないものを持っているからだ。

 

これらに共通しているのは「肯定」であると思う。

生まれ持った体への肯定。自分が取れた点数への肯定。周囲からの自分に対する肯定。

 

人には自分の心を守ろうとする機能がある。生命が生き残るための大切な手段でもある。その機能はショック、動揺、自分を傷つけかねないあらゆる物事に対して働く。肯定の逆、つまり否定もそこに含まれるのだと思う。

非常に認めがたいことではあるが、否定されることは辛く、苦しいことだ。物事を真摯に受け止めて次に活かし、ほどほどに忘れることが最適解であるとわかっていても、ずっと受け入れられずにいることも多いだろう。

なによりも否定されて傷ついている自分を認めるのは、勇気のいることだ。

大人になると、傷ついてなんかないですよ、という顔をしなければならない場面が増える。野生の動物でも、弱っていることがわかると捕食者に狙われるため、傷ついていないそぶりをすることがあるそうだ。逆に狙われないために死んだふりをする種もいるというから、なんだか面白いものである。気になる方は「擬死」で検索してみてほしい。

話がそれてしまった。

強いふりをしなくてはならないのは、本当は弱いからだ。

打たれ弱く傷つきやすく、自分を好きになれない。そういった「メンタルが弱い人」に必要なものは、メンタルを強くすることでも、プライドを高めることでも、技術や能力を高めることでもないと私は思う。

必要なのは、弱くても許される場所だ。

上手くできなくても、完璧でなくてもいい場所。笑われたり見下されたり、軽んじられたりしない場所。居場所という言い方もできる。

 

私はトイレが大好きだ。

この世で一番落ち着く空間といっても過言ではない。

お尻を出しても排泄をしてもそれが当然の場所としてそこにある。

公園の中でも高級ホテルの中でも、そこがトイレである限り、誰もが平等に丸出しで無防備である。

そして仮に今この瞬間世界中のトイレが全て消え失せたとしても、人は必ずトイレに行きたくなる。

大切なのは出さないことではなく、出せる場所があることだ。

 

プライドの高さは、自信のなさや不安の裏返しであると思う。

もし身の回りに「メンタルが弱くプライドの高い人」がいて、ちょっと面倒くさいと感じていたら。あるいはこの記事を読んで下さった方自身がそうであるなら。

その人に必要なのは、追い立てるよりも肯定することであると思う。

メンタルが弱くても許される経験を何度か重ねることで、その人自身も周囲の人も、よりよく過ごせるようになると思う。

 

もちろん、全てがそう上手くいくわけではない。理想論だといわれると否定はできない。

私はこうして書くことくらいしかできないけれど、この文章が誰かのもとに届いて、弱さを許す一助になればと思う。

頑なに閉じられている心のサイクルを解くきっかけになれば、これほど嬉しいことはない。

 

 

ここまで長々と書き連ねてきたが、正直なところ自分がどうしてこんなに傷つきやすいのか、という疑問に対しては未だはっきりとした答えを見つけられていない。

個人的には生まれつきの差があり、工夫でカバーはできても、努力ではあまり埋められない部分だと思っている。

 

上で「自分の心を守ろうとする機能」について触れたが、これは精神分析において「防衛機制」と呼ばれるものだ。心理学に触れたことのある人なら、聞き覚えのある単語かもしれない。

kotobank.jp

自分の欲求と現実とが一致しないときに、折り合いをつける働きである。

すっぱい葡萄のエピソード等が著名だろうか。

 

不快なものごとを回避することもその機能の一つだ。

私たちは絶えず様々なものを記憶し、結びつけて学習している。

餌付けは〇〇に行けば/〇〇すれば食べ物が手に入る、という学習だ。

特定の場所や行動と快が結びついている。

逆に不快な思いをした場所には近寄らなくなったり、その行動を起こさなくなったりする。

たとえば熱いやかんを触って火傷をしたとする。

熱いやかんに触れると火傷をする。火傷は痛い。痛いのが嫌なのでもう熱いやかんには触らないでおこう、となる。

不快感を催すのは大小なりとも自分の存在が脅かされているときだ。

痛みや恐怖、不安、飢えを感じるのは、危険を回避するために必要なことだといえる。

快が生き延びるための学習なら、不快は死なないための学習といったところだろうか。

 

生物は多様性によって生き残ってきた。

危険に正面から立ち向かうタイプ、危険からは徹底的に逃げるタイプ。そもそも危機感をあまり抱かないタイプ。

それぞれが違う選択をすることそのものが、生物の生存戦略である。

 

俗に「メンタルが弱い」といわれるのは、繊細さ、神経質さ、傷つき、落ち込み、引きずりやすさ等だ。

「細かな点に気づきやすい」「昔の出来事をいつまでも覚えている」という表現もよくなされる。

なんとなく察しがつくかもしれないが、これらは逃げに特化した形だ。

小さな異変に気づき、過去にあった危険を軽んじない。安全を重視するタイプともいえる。

現代では逃げることはよくないこととされがちだが、生き残るためには必ず必要なことだ。丸腰の人間とライオンが1対1で向き合ったとして、ライオンを倒すよりは逃げた方が、生存の確立が高い。そこで立ち向かうのは勇気というより無謀だといえる(無謀で生き残った個体がいる可能性もあるのがまた面白い)。

 

弱いことで生き残ってきた個体がいる。

弱肉強食というイメージとは矛盾しているように思えるかもしれないが、弱さも一種の強さなのだと思う。

 

過剰な不安や恐怖で生活がままならなくなったことがある身としては、もう少し図太い人間に生まれてきたかったというのが正直なところだ。

あいつびびりすぎでしょw と何度言われたことかわからない。

あらゆる可能性が恐ろしく、この意識が消えれば不安からも解放されるのでは、と何度も思った。

しかし考えてみてほしい。現にこうして、びびりな私は生き残っている。

メンタルは弱い、プライドは高い、全部ワンテンポ遅い、運動も仕事もあまりできないものの、こうして生き残っているのだ。

自分で末代になるかどうかはともかく、恐らく同じようにびびりで逃げ足の速かったであろう祖先は、子孫を残すことに成功している。

いうなればびびりのハイブリット、豆腐メンタルの申し子である。脆いので角が立たない。

 

強く逞しく声の大きい人と出くわすと、精神的に疲れ果ててしまうこともある。

しかし、よく考えてみると面白い。

人類の誕生から何百万年が経っているのに、相容れない性格同士の人間が、同じ地面の上に立っている。

双方とも生き残っているという時点で、私たちはそれぞれに強く、そして弱い。

 

できれば生きているうちに、なぜ生き物は生きようとするのかも知りたいところである。