メンタルが弱くプライドは高い人
「自分、メンタル弱いな」
とよく思う。昔からずっと思っている。
「プライド高いところがあるよね」
と時々言われる。多分そうなんだろうと思う。
一見相反する要素に見えるものの、この二つを同時に抱えている人は割合多いのではないか。
メンタルが弱く、プライドは高い。
接していて面倒だと感じる人も多いだろう。しかし本人も自覚がありながら、どうにもならず悩んでいることもある。
私はどちらかというと、面倒な人の方だ。
ここでは一歩踏み込んで、なぜ「メンタルが弱く、プライドは高」くなるのか考えてみようと思う。
まずメンタルが先天的(生まれ持ったもの)であるのに対して、プライドは後天的な(生まれてから身につける)ものだ。
メンタルを体に、プライドを服にたとえてみる。
自分の体に自信がないのでどんどん服を着込む。
人と同じものを着ていると自分の欠点がより目立つので、変な個性(変というところがポイント)を出してしまう。
そして隠しているつもりなのに体の特徴を上げられると、ひどく恥ずかしくなったり、傷ついてしまう。
さらにそれを隠そう、よく見せようと思い、もっと高い服や個性的な服を着込んでいく。
次第に周りの人からは「似合ってない」「それは違うと思う」「こっちのほうが合う」と言われるようになる。
ここで服を変えられる人もいる。選んだ服が似合うよう、体を鍛えようとする人もいる。
しかし客観的に見れば似合っていないとわかっているのに、どうしても脱げない人も確かに存在する。周りの人の言葉を信じていないわけではない。
ただ何よりも自分の体が嫌いで恥ずかしい。似合っていなくても不釣り合いでも、本当の体を見せるくらいなら着込んだままの方がましだと感じている。
周りの人の目が服のセンスに向いているうちは、自分の体に意見が向かなくて済む。
プライドという言葉は否定的な意味合いで使われることが多い。しかし誇りや自負といった訳があるように、決して悪いばかりのものではない。魅力的な要素でもある。
肝心なのはバランスであるとつくづく思う。体と服、メンタルとプライドのバランス。いかに「ちょうどいい」か。
自分を含めメンタルが弱くプライドが高い人を見ていると、妥協ができない性格であることが多いと感じる。
「妥協」や「及第点」「ほどほど」といった言葉にイラッとくる人。
他人の欠点も自分の欠点もよく目につくし、それが許せない。
妥協というのはつまり「80点を許す」ことだと思う。
100点満点以外を取りたくない人にとって、80点を許すことは、ときにテストを受けず0点になることよりも認めがたいことだ。
そこには「20点を落とした自分には価値がない」「100点を取らないと必要とされなくなる」といった強迫的な考えが潜んでいることもある。元を辿れば、自分は必要とされていない(=必要とされていると感じられるだけの根拠が欲しい)という不安がある。
先ほどの例は端的に言うと完璧主義のことであるが、その恐ろしいところは、100点を取り続けても満たされるわけではないというところだ。
仮にテストで100点を取れたとしても「1問も間違わなかった、1点も落とさなかった」ことに安心はしても、「100点を取れた喜び」とは少し異なる。
終わりのないコースを走り続けるか、途中で脱落するか。
そして自分が必死に走っている中、同じコースを楽しそうに走っている人を見ると、こう思う。
私のほうが走るの上手いのに、と。
体と服。100点のテスト。耐久レース。
ここまでの例を振り返って、メンタルが弱くプライドの高い人が「うらやましい」と感じているのは、どんな人だろうか。
自分の体に自信がある人。服で体を隠さなくても、胸を張って道を歩ける人。
テストの点を確認して、過度に落ち込まず、次のテストに向けて冷静に対策ができる人。
ものすごく上手いわけではなくても、楽しそうに走っている人。周りから応援されている人。
うらやましいと感じるのは、自分が欲しいけど手に入れられないものを持っているからだ。
これらに共通しているのは「肯定」であると思う。
生まれ持った体への肯定。自分が取れた点数への肯定。周囲からの自分に対する肯定。
人には自分の心を守ろうとする機能がある。生命が生き残るための大切な手段でもある。その機能はショック、動揺、自分を傷つけかねないあらゆる物事に対して働く。肯定の逆、つまり否定もそこに含まれるのだと思う。
非常に認めがたいことではあるが、否定されることは辛く、苦しいことだ。物事を真摯に受け止めて次に活かし、ほどほどに忘れることが最適解であるとわかっていても、ずっと受け入れられずにいることも多いだろう。
なによりも否定されて傷ついている自分を認めるのは、勇気のいることだ。
大人になると、傷ついてなんかないですよ、という顔をしなければならない場面が増える。野生の動物でも、弱っていることがわかると捕食者に狙われるため、傷ついていないそぶりをすることがあるそうだ。逆に狙われないために死んだふりをする種もいるというから、なんだか面白いものである。気になる方は「擬死」で検索してみてほしい。
話がそれてしまった。
強いふりをしなくてはならないのは、本当は弱いからだ。
打たれ弱く傷つきやすく、自分を好きになれない。そういった「メンタルが弱い人」に必要なものは、メンタルを強くすることでも、プライドを高めることでも、技術や能力を高めることでもないと私は思う。
必要なのは、弱くても許される場所だ。
上手くできなくても、完璧でなくてもいい場所。笑われたり見下されたり、軽んじられたりしない場所。居場所という言い方もできる。
私はトイレが大好きだ。
この世で一番落ち着く空間といっても過言ではない。
お尻を出しても排泄をしてもそれが当然の場所としてそこにある。
公園の中でも高級ホテルの中でも、そこがトイレである限り、誰もが平等に丸出しで無防備である。
そして仮に今この瞬間世界中のトイレが全て消え失せたとしても、人は必ずトイレに行きたくなる。
大切なのは出さないことではなく、出せる場所があることだ。
プライドの高さは、自信のなさや不安の裏返しであると思う。
もし身の回りに「メンタルが弱くプライドの高い人」がいて、ちょっと面倒くさいと感じていたら。あるいはこの記事を読んで下さった方自身がそうであるなら。
その人に必要なのは、追い立てるよりも肯定することであると思う。
メンタルが弱くても許される経験を何度か重ねることで、その人自身も周囲の人も、よりよく過ごせるようになると思う。
もちろん、全てがそう上手くいくわけではない。理想論だといわれると否定はできない。
私はこうして書くことくらいしかできないけれど、この文章が誰かのもとに届いて、弱さを許す一助になればと思う。
頑なに閉じられている心のサイクルを解くきっかけになれば、これほど嬉しいことはない。
◆
ここまで長々と書き連ねてきたが、正直なところ自分がどうしてこんなに傷つきやすいのか、という疑問に対しては未だはっきりとした答えを見つけられていない。
個人的には生まれつきの差があり、工夫でカバーはできても、努力ではあまり埋められない部分だと思っている。
上で「自分の心を守ろうとする機能」について触れたが、これは精神分析において「防衛機制」と呼ばれるものだ。心理学に触れたことのある人なら、聞き覚えのある単語かもしれない。
自分の欲求と現実とが一致しないときに、折り合いをつける働きである。
すっぱい葡萄のエピソード等が著名だろうか。
不快なものごとを回避することもその機能の一つだ。
私たちは絶えず様々なものを記憶し、結びつけて学習している。
餌付けは〇〇に行けば/〇〇すれば食べ物が手に入る、という学習だ。
特定の場所や行動と快が結びついている。
逆に不快な思いをした場所には近寄らなくなったり、その行動を起こさなくなったりする。
たとえば熱いやかんを触って火傷をしたとする。
熱いやかんに触れると火傷をする。火傷は痛い。痛いのが嫌なのでもう熱いやかんには触らないでおこう、となる。
不快感を催すのは大小なりとも自分の存在が脅かされているときだ。
痛みや恐怖、不安、飢えを感じるのは、危険を回避するために必要なことだといえる。
快が生き延びるための学習なら、不快は死なないための学習といったところだろうか。
生物は多様性によって生き残ってきた。
危険に正面から立ち向かうタイプ、危険からは徹底的に逃げるタイプ。そもそも危機感をあまり抱かないタイプ。
それぞれが違う選択をすることそのものが、生物の生存戦略である。
俗に「メンタルが弱い」といわれるのは、繊細さ、神経質さ、傷つき、落ち込み、引きずりやすさ等だ。
「細かな点に気づきやすい」「昔の出来事をいつまでも覚えている」という表現もよくなされる。
なんとなく察しがつくかもしれないが、これらは逃げに特化した形だ。
小さな異変に気づき、過去にあった危険を軽んじない。安全を重視するタイプともいえる。
現代では逃げることはよくないこととされがちだが、生き残るためには必ず必要なことだ。丸腰の人間とライオンが1対1で向き合ったとして、ライオンを倒すよりは逃げた方が、生存の確立が高い。そこで立ち向かうのは勇気というより無謀だといえる(無謀で生き残った個体がいる可能性もあるのがまた面白い)。
弱いことで生き残ってきた個体がいる。
弱肉強食というイメージとは矛盾しているように思えるかもしれないが、弱さも一種の強さなのだと思う。
過剰な不安や恐怖で生活がままならなくなったことがある身としては、もう少し図太い人間に生まれてきたかったというのが正直なところだ。
あいつびびりすぎでしょw と何度言われたことかわからない。
あらゆる可能性が恐ろしく、この意識が消えれば不安からも解放されるのでは、と何度も思った。
しかし考えてみてほしい。現にこうして、びびりな私は生き残っている。
メンタルは弱い、プライドは高い、全部ワンテンポ遅い、運動も仕事もあまりできないものの、こうして生き残っているのだ。
自分で末代になるかどうかはともかく、恐らく同じようにびびりで逃げ足の速かったであろう祖先は、子孫を残すことに成功している。
いうなればびびりのハイブリット、豆腐メンタルの申し子である。脆いので角が立たない。
強く逞しく声の大きい人と出くわすと、精神的に疲れ果ててしまうこともある。
しかし、よく考えてみると面白い。
人類の誕生から何百万年が経っているのに、相容れない性格同士の人間が、同じ地面の上に立っている。
双方とも生き残っているという時点で、私たちはそれぞれに強く、そして弱い。
できれば生きているうちに、なぜ生き物は生きようとするのかも知りたいところである。
ひとりごと
※オチなし
働くことにも少しずつ慣れてきたこの頃、よく考えることがある。
労働って結局なんなんだろう。
「労基法なんて守ってたら、会社が成り立たないよね」と、誰かが言っていたのを思い出す。特定の誰かではない。多分、何人かの口から聞いた。
自分もいくつかのアルバイトを経験したが、どこも勤務時間は15分刻み、端数を切り捨てる形だった。つまり1時間働いても、1時間14分働いても、発生する賃金は1時間分だ。
ひどいところでは「ぎりぎりまでトイレ掃除してろ」という会社もあった。クソ食らえ! と思っていたら数年後にブラック企業大賞受賞しててちょっと笑った(すぐ辞めた)。賞自体に賛否があることはともかく「まあ、そうだろうな」と思う会社だった。
そして心の支えになったものも、同じように働いている周りの人たちだった。一度、夜通し「労働」について友人と語り明かしたことがある。
・「早く来て遅く帰れ」は時給制と矛盾している
・制服を自腹で買わせるのはおかしい
・1分単位でお給料出してほしい
・ていうか求人と実際の内容が違うってどうなのよ
話は尽きることなく続いた。日頃の不満は不思議と明るい声となって口から出た。そして話題は、最初に出てきた言葉に移る。
「労基法なんて守ってたら会社が成り立たないよね」なんて言わないでほしい。今そうだとしても、諦め混じりで下の世代にそんなことを伝えたくない。守ってなくて当たり前の空気を作っている時点で、他の人の労働の価値を下げて、世の中全体を悪い方向に動かしてしまってることに、なんで皆気付かないんだろう。それは気遣いや思いやりではなく、同調圧力なんじゃないか。
必要なのは形だけの法律ではなく、一人一人が声を上げて変わっていくことなんじゃないか。自分たちが働き始めたときに「え?」と思った部分が、10年後も残っていてはいけない。10年後の若い人が同じ思いをするような社会にしないために、今動くべきは、自分たちの世代ではないのか。
みたいなことを、どちらからともなく深夜のテンションで話し続けた。けれど今見ても、そう間違ったことは言っていない。
とにかく、同じ考えを持っている人がいると思っただけで、心細さが随分和らいだことを覚えている。
恐らく、似たようなことを考えている人は少なくない。ただ現場で声を上げるのは難しい。若い世代の意見は、ともすれば「一人前にもなっていないくせに偉そうなことを言うな」と(一番届いて欲しいタイプの人に)一蹴されてしまうこともある。平均年齢の低い企業でもなければ、一人で発信していくのは少し無理がある。
数を補強して、意見をよりしっかりさせたい。そして一人で悩む人を減らせるようなコミュニティはないだろうか。あるいは作れないだろうか。
生きるために働く。生きている人は皆幸せになる権利がある。
全ての労働を幸せにすることは難しい。けれど、労働から不幸を取り除くことはできるのではないか。
幸せになるために働いてるんですよ、と胸を張って下の世代に言える大人になりたい。
そう改めて思う。
プロフィール
(2019年に書き始めた記事を元にしています)
前置き
ADHDの診断も降りたので、改めて自分のことを整理してみます。
このブログは特に役立つ情報があるわけでもないです。
ただ病院に行く前、「特に役立つ情報はないけれど、当事者がどのように日常を感じているかがわかる」という点において、自分自身のことを書かれている他の方のブログは非常に有用でした。特にご自身のプロフィールを開示されている方のものは、参考になりました。
というわけで、当ブログもその一助になれば。
(その情報いる? というような項目もあるかと思いますが、個人が特定されない範囲でなるべく詳しく書こうと思ってのことです。また、特定の思想・個人やグループに属する方を中傷・差別するものではありません。)
世代
筆者は現在20代半ばです。
ゆとりまっしぐらの世代です。
私達の世代では、ギリギリ発達障害という概念が普及していませんでした。地域差は多少あるかもしれません。
おそらく2~3年下の代ではもう少しメジャーだったのではと思います。
明らかな知的障害で支援学級にいる人は同級生にもいましたが、今現在ほど理解は進んでいませんでしたし、もちろん私も自分に障害があるなんて、知る由もなく過ごしていました。
傾向
MBTI診断だとINFP(仲介者/理想主義)タイプ、エゴグラムではAC(順応力)が一番高く、次いでCP(厳格さ)が高いです。恐らくですがHSP。生き辛すぎコンボ。
心身共に女性です。ジェンダーには特に違和感を持ったことはなく、ストレートです。
関西出身ですが、どうも西の言葉は物言いがキツくて苦手です(自分も喋っているんですが)。
性格面では、正義感が強い、生真面目、気配りができるなど褒めてもらえる点もあります。
一方でそれらが裏目となり、潔癖、間違ったことや嘘が許せない、完璧主義、妥協ができない、見返りを求めすぎるなどの欠点もあります。
衝動性が関係しているのか? 妙に惚れっぽいです。
発達の傾向
そして当ブログのタイトルにもありますように、発達障害(ADHD)があります。
ASDではなかったようですが、ルールに対するこだわりが強く、人との共同生活が苦手です。特に「○○してはいけない」と教えられるとそこからはみ出す行為が一切できなくなります。また、他の人が状況に応じて臨機応変に対応、時にルールを破っているのを見ると、非常に落ち着かない気分になります。
とにかく決められたとおりに完遂することが喜びなので、邪魔されるのは大変苦手です。時間が経つと落ち着いて受け入れられることもあります。
不注意よりギリこだわりの強さが勝っているのか、インテリアやファッションは好きです。
ときどき小物のセンスを褒めてもらえることもあります。
こうして褒められたことをいちいち思い出して鼻高々になっていますが、それは特別な評価をもらえるほど突出したセンスがないことの裏返しだったりします。
WAIS-Ⅲの結果によりますと、言語能力だけ高くて、処理能力・速度は平均ちょい下くらいです。語彙はあるけど会話を組み立てるのは下手といった感じです。特に時系列順に話すのは大変苦手です。1度の説明で伝わったためしがありません。
整理しながら書けるので、会話でのコミュニケーションより、手紙やメールでのやりとりのほうが好きです。
LINE普及の恩恵を大いに受けています。ありがたや。
また注意力の問題なのか、聞き間違いや聞き取れないことが非常に多いです。特に電話やインターホン、メガホン越しの声。人混みや車の多い道路沿い、自転車に乗っているときや電車内は基本的に会話ができません。ていうか逆になんで皆周りの声がちゃんと聞こえるのか不思議だよ。サ○ゼで雑談できる人すごいと思う(サ○ゼ自体は好きです)。
APD等の診断は特に下りておりません。
あと苦手な音も多いです。クラクション、掃除機、若い女の子集団のはしゃぎ声、子供の声、ウェイ系男子集団の笑い声、咀嚼音、などなど。
得意科目で言いますと、国語・英語は比較的できます。第3言語もほんの少しだけ。授業をちゃんと聞いていれば平均以上の点も取れていました。ただ英語のリスニングは全くもってダメです。
理科は生物ならなんとか。数学と歴史はてんでダメです。数学は中学の課程から「数字をaとかbの文字で表す」というのがどうしても受け入れられなくて挫折しました。世界史はカタカナの人名が皆一緒に見えるのと、日本史は家系が続くと同じ名字ばかりになるので覚えられず。どうやら私は誰かのことを記憶するとき、名前の漢字のイメージで覚えているようです。
病気とか
いくつかの持病(というほどのものでもないですが)があり、服薬・通院中。
アトピー、ADHD/注意欠陥多動障害、婦人科系疾患、各種アレルギー、鼻炎とか過眠とか過敏性腸症候群とかいろいろ。
アトピーは生後すぐからです。
体感ですが、発達障害とアトピー・アレルギーを併発している人は結構多いように感じます。過敏性が関係しているのでしょうか?
かくいう私もその一人です。
今すぐ生死に関わるようなものはないけれど、じわじわとQOLを下げてくる系が多い感じです。
化粧品も合う合わないの差が激しいです。
アルコールの入っている化粧水は基本的に痛くて使えず、ファンデーションやリップ選びもなかなか大変です。あとシャンプーも。
特にリップ。合わないものがほとんどです。
ワセリンしか勝たん。
でもパッケージが可愛いとつい衝動買いしてしまいます。そういうとこだぞ。
ほか
それ以外の特長も列挙してみます。
・よくぶつかる
・舌を噛みがち
・運動が下手
・一人の時間がないと耐えられない
・旅行は好きだけどめちゃくちゃ勇気がいる
・文化系
・道を聞かれやすい
・動植物や自然が好き
など……
そして
忘れっぽい。当記事はブログ開始後まもなく、どういった人物が更新しているのかも載せておくべきだと思い、書き始めたものでした。
そして投稿したつもりで下書き覧に眠っていたので、2年後の今、若干の手直しも加えつつ掲載した次第です。
似たような状況にある方の一助になれば、とても嬉しいです。
あわよくば他の方との交流もできれば、なんて思っております。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
新生活002
お久しぶりです。
書きかけの記事が残ったまま、すっかり忘れていました。
らしいというかなんというか……
1
商業で書いている方はまた別だと思うが、つまるところ「書く」なんて行為は現実逃避に過ぎない。少なくとも私にとってはそうだ。
文章ばかり書いているときなんて、だいたいはそうしなければ落ち着かないほど感情が溢れているか、他にやりたくないことがあるかのどちらかだ。
ブログなんて更新されていないほうが、中の人にとっては幸せなのかもしれない。
2
前回の更新からしばらくして、私はなんとか仕事を見つけることができた。
障害者枠での雇用で、時間や勤務形態に関してもかなり柔軟に対応してもらっている。
今までとは全く違う職種だが、もしかしたら今までで一番自分に合っている仕事(当社比)かもしれない。
ただ、そう思えるのは周りの方のサポートがあってのことだ(身バレが怖いので詳細については書きません。ごめんなさい)。
あのままクローズ就労を続けていれば、様々な面でより頑なになっていただろうと思う。
体感ではあるが、能力の凸凹や逆境に耐え、死に物狂いで「普通」に追いついた経験がある人ほど、他の同じような人に努力を求めやすい。
頑張ったからどうにかなったという成功体験であったり、なぜ自分だけこんな苦労をしなくてはいけないのか(=他の人も同じ思いをするべきである)という不満であったり、人の中には様々な思いがある。そう感じるのは自然なことであり、きっとその人たちが悪いわけではない。
肝心なのは、自分だってそうなる可能性があるということを頭の隅に留めておくことだ。
3
話が逸れてしまったが、初めての障害者雇用枠での就職だ。
正社員雇用の夢は未だ叶っていないものの、ひとまず職に就けたことで、いろいろなものが見えてきた。
たとえるなら、私は餓えた獣だった。ネタ半分の表現ではあるものの、もう半分は本気だ。目の前の獲物を追うのに必死になりすぎて、自分が空腹だから獲物を追っているのか、獲物を追いすぎてお腹が減っているのか、それすらも判別できなくなっていた。とにかく「捕まえなければ」と思い続けていた。実際は餓えた獣というよりすえた干物って感じだったけれど。
自覚はなかったものの、昨年(家に籠もっていた頃)はかなり精神的に追いつめられていたらしい。家事全般に加えて、写経、絵の模写、ストレッチに模様替え、思いつく限りのことはだいたいやった。睡眠は長いものの、やはり時間は有り余っていた。比例して貯金は減っていった。大っぴらにはできないが、お金の余裕は心の余裕だと改めて感じた。
今は自分で稼いでいる(社会の役に立って対価を得ている)という嬉しさ。なんとなくだが、ここはあえて喜びではなく嬉しさと書きたい。まだ一人で暮らしていけるほどの収入はないものの、少しずつプライド的な何かが回復してきているように感じる。
家に籠もっていた期間も無駄ではなかったと思う。自分にとっては絶対に必要な時間だった。
4
そして今振り返って「これ大事だったな」と思ったこと。
・病院を受診したこと
・障害の診断が降りたこと
・手帳を取得したこと
・福祉を頼ったこと
・似たような人と繋がりを持てたこと
詳細についてはまた後日書きたい。
文章にのめりこむ力が昔より落ちてしまった……
新生活001
突然だが、先月から就労移行支援施設に通い始めた。
いろいろな縁があってのことだ。繋いでくれた人たちには感謝しかない。
経緯は単純だ。仕事を辞めて約1年、そろそろ就活か、と思っているうちに、あれよあれよという間に世の中は新型肺炎ウイルスの影響を受け、大きく変わった。
私もその影響で、一切の仕事がなくなったうちの一人だ。
ジリ貧になった私は重い腰を上げ「障害者雇用の枠ならワンチャン正社員いけるのでは?」と、甘い考えとともに施設見学へ向かった。
(実際は時短あり障害者枠はパートがほとんどらしい。世知辛い。)
通い始めて最初に思ったのは「意外と若い人が多い」ということだった。施設の特色によるところも大きいと思う。
入る前は、「30~40代で、就労経験があって、でも障害があって長く続かずにorメンタルを病んで退職し、社会復帰に向けて通所中」みたいな人が沢山いると思っていた。しかし実際には、支援学校を卒業後すぐに入所した10代後半くらいの人が大きなウェイトを占めている、と思う。
就労移行支援施設と一口に言っても様々なようで、それぞれの施設に特色がある。ITやプログラミングに重きを置いているところもあれば、マナーや接遇重視のところもある。いかにも「施設」という感じの対応のところもあれば、ほぼ社会に出たときと変わらない厳しめの対応のところもある。
また施設の特色とは別に、通っている人の雰囲気も大きい。
同じ「障害者」と言っても、いろいろな人がいる。
様々な福祉サービスを受けて感じたのは、正直、障害という言葉で指し示す範囲が広すぎるのでは? ということだった。
そもそも身体と精神でもかなり違う。
町中でも「目や耳が不自由な人」という文言を耳にするが、よく考えたら目と耳ってだいぶ違わない? とも思う。
また仕事という点で見ると、就労経験のない10代後半~20代前半の人と、長年働いた後になんらかの事情で辞めざるを得なくなった人では、必要な支援もかなり違ってくる。
前者が多い空間と後者が多い空間では、かなり雰囲気に差がありそうだ。
そしてやはりというか、コミュニケーション面に難がある人は、福祉施設においても浮きがちになってしまう。少し悲しい。
職員さんも一人の人間なのでどうしても腹が立って仕方ないときがあると思う。
仕方ないけれど、なぜ怒られているかわからないまま怒られ続けている人を見るのはつらいものがある。
実務とコミュニケーション、どちらも大切なものだが、実務>コミュ力の人よりは、コミュ力>実務の人の方が(まだ)生きていきやすい、というのは、そういった場所でも変わらないようだ。
障害福祉の施設というと画一的なイメージがあるが、民間運営なので思っていたよりは施設ごとの特色・差が大きいらしい。
通常の就活と同様に、こまめに情報を集めて、出来ればたくさん見学に行ってから決めるのが良さそうだ。
口コミはアテにならない(医療・福祉・公的施設の口コミは文句しか書かない人が多い。g○○gleマップとか)。
特に障害のある人は合う・合わないの範囲がかなり狭いことが多い。他の人がすごく良かったと言っていても、自分にとってはそうじゃないこともある。
運ゲじゃなくなる日が早く来ることを切に願う。
人の顔の覚え方
突然だが、世の中の人々はどのように個人を識別しているだろうか。
「えーとあの人、顔は出てくるのに名前が思い出せない」なんて言葉はよく聞く。
しかしよく考えてみると、それは人がどのようにして他人を覚えているか、というプロセスを追体験する重要な手がかりなのでは? と思う。
私にはあまり、顔は浮かぶが名前が出てこない、ということがない。
大人になり仕事を始めてから気付いたことだが、私は「顔だけ覚える」のが苦手らしい。
お客さんに呼び止められて対応し、いったんその場を離れる。するとさっきまで話していたのが、どの人だかわからなくなることが時々あった。
思えば学生時代は約200人いた同級生(もちろん話したことのない人が大半)を全員フルネームで暗記していたが、それはクラス分けの紙や座席表があってのことだった。
そして職が変わり、名刺を貰うことが増えると、人をすぐ覚えられるようになった。
ようは文字のイメージで人を覚えていたのだ。
人を覚えるときに私はまず、漢字のイメージを見る。日本人の姓には、ほぼ必ずといっていいほど自然に関する字が入っている。そして自然は色と結びついている。
名前とイメージの結びつきを、個人的なメモも兼ねてこの記事に残しておこうと思う。
たとえば山本さんなら、黄色のイメージ。たぶん、山吹色から来ていると思う。山はどっしりとした印象があるし、本という字も「基本」「本家」「大本」などのしっかりしたイメージがある。したがって、私の中ではなんとなく「黄色系で土台のある感じ」になる。そこに顔や姿を見たときの印象が結びついて、個人としての記憶になる。山がつく姓は縦書きにしたとき左右対称のものが多く、バランスがよく見えるというのもあるかもしれない(山本、山田、山口、山内、山中、たぶんその他も)。
土系の字でも、石とか岩がつく人はまた別で、灰色で冷静そうな感じがする。
植物に関する字が入っている名前は、緑のイメージ。森、林、草など大きなカテゴリを指すもの。あとは笹、竹、松とか、特定の種を指し示すものはよりそのイメージに近い。蕨とか葦とかちょっとレア植物だとより覚えやすい。部首が草冠や竹冠だともう緑。種、野がつく名字も緑っぽい気がする。
水系はぜんぶ青とか水色。水、川、池、崎、サンズイがつく字全般。払いの多い漢字が多いので、線が細く繊細なイメージがある。あとは2文字目に田がつく名字など。なので池崎さんとか川崎さんは私の中ではすごく青い。あと個人的な所感だが、川は薄いブルーで、河は濃い青のイメージがある。沼田さんとかはもうちょい緑に近いイメージがある。
また色そのものが入っている名字はとても覚えやすい。赤井、青木、白井、黒田、金など。「ミドリ」は下の名前で見ることの方が多い気がする。その場合も緑っぽいイメージになる。
縁起のいい字が含まれている名字は、ピンクだったり暖色系のイメージになる。福がついてると完全にピンク。あとは沖縄ルーツの人に多い喜、嬉、嘉などの字は、朱色に近い赤の雰囲気を感じる。愛も同じ。でも吉はなんか別。たぶん吉で始まる名字は多いので、自分の中では別カテゴリになっているのだろう。
あとは位置系。前、後、中、上、下、奥など。セットでつくのがだいたい田とか山なので、一枚の絵として想像しやすい。後がつく人はちょっとレアそう。
方角もまた別。東西南北がつく名字があてはまる。東は朝、西は夕暮れ、南は海、北はクールなイメージになる。あと同じ東さんでも「アズマ」なのか「ヒガシ」なのかでかなり印象は変わる。母音からしてまるきり違うので面白い。
また位置系とは別にサイズ系もある。大、小のつく名字。でも小山田さんとか大前崎さんとかはそれはそれで3文字カテゴリに入っちゃうので別だったりする。
それから動物系。兎や犬、熊、虎、馬など。猫はフィクションではよく見かけるが、現実にはあまりいない気がする(猫のつく方が読んでたらごめんなさい)。魚は水系に入る。蛇は緑(藪のイメージかもしれない)。
蛇で思い出したが、ちょっと怖い系もある。鬼蛇、裏などの入る名字。余談だが、一部の鬼のつく名字の家庭では、節分のときに「鬼は外」とは言わずに「福は内」だけ言うという話を聞いたことがある。
それから有名な地名と同じ系統。秋田さん、千葉さん、石川さん、岡山さんなど。
千葉さんで思い出したが、数字系の名字も別の分類っぽい。万、千、百、あとは一、二、三、四、五、など。なんとなく奇数のつく名字のほうがよく見かける気がする。
これだけつらつらと書いたけれど、自分の覚え方をメモするよりは、むしろ他の人の覚え方のほうが興味深いかもしれない。
睡眠薬でやらかさないための備忘録
はじめ
前回https://wakatteyo.hatenablog.com/entry/2020/02/27/033458
、睡眠薬(入眠剤)を飲んだ後に、いろいろとやらかしたという記事を書いた。
その続きをここに載せようと思う。
薬が効かない?
睡眠薬は布団に入る直前に飲む。私が服用しているゾルピデム(マイスリーのジェネリック)もそうだ。服用後30分ほどすると、だいたい「帰りの電車で寝落ちするとき」程度の眠気がやってくる。
前回の記事の頃には、薬を飲んでも眠れないことが多々あった。最初は耐性がついてしまったのかと思ったものの、明らかにすぐ眠れる日もある。そして、薬局でもらう薬の説明にも「就寝直前に飲んでください」という以外には、特に指定もない。
なぜ効く日と効かない日があるのだろう?
同じ人間が同じ薬を飲み続けているのだから、そこには何か条件があるはずだ。
結論
辿り着いた結論は「満腹時に薬を飲んでも効きにくい」だった。
よくよく考えてみると、我が家は夕食が遅い。
夜8時に夕食を食べ終える人と、11時に食べ終える人がいたとする。どちらも夜12時に眠るとしたら、同じ「就寝前に服用」でも体の状態はかなり違う。
胃の中に未消化のものが沢山あれば、薬の効きが遅くなるのも当然だ。
そして思い返してみると、効かない日と同様に効き過ぎる日もあったことに気付く。服用後ものの15分程度で、気を失うように眠ってしまう。いつ寝たのかも全く記憶にない。そういう日は、決まって夕食が早い日だった。空腹時にお酒が回りやすいのと同じかもしれない(たぶん)。
まとめ
個人差はかなりあると思うが、
・夕食後最低1時間程度空けてから薬を飲む
・空腹のときは少しだけおやつを食べてから薬を飲む
・薬を飲んだ後には絶対しないことを決めておく(LINEを開かない、どこかに書き込むような行為をしない、ネットショップを見ない、対人ゲームをしない、人と話さない、など)
の3つを心がけたところ、かなり快適になった。つまり、朝起きたときに記憶がなかったり、変なことをしていることがほぼ無くなった。
薬を飲んだ直後に20~30分程度の動画を見ると、ほどよいタイミングで眠れるのでとても助かっている。
とりあえず夕食が遅すぎるのはよくない。
同じように困っている方、よかったら参考にしてください。